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男同士の言葉に出来ない何か

バケモノの子

泣いてしまった。大いに泣いてしまった。嗚咽が出るほど泣いてしまった。まぁ、無償の愛系に弱い私が泣かないわけがなかった。映画館で観なくて良かったと心底思う。

※ネタバレ有り

一番良かったのは師弟兼擬似親子です。
熊徹にとって九太は初めての存在だったんじゃないでしょうか。大切に思ったり思われたり。喧嘩したり仲直りしたり。楽しいこと、悲しいこと、苦しいことを共有したり。
何でもない日常を誰かと過ごす。
熊徹からしたら初めてのことで苦労したところもあるけど同じくらい幸せを噛みしめたんだろうなと思うと泣くしかない。
幸せって特別からくるものじゃなくて、日常の積み重ねからくるものだと思うから。二人が過ごしてきた日々はどれだけ眩しいものだったんだろう。
アアアアアアアアアアアア、涙が止まらない。
最後まで九太は熊徹を「親父」とは呼ばなかったことは驚きました。最初は九太には実の父親が存命しているから?とか思っていましたが九太にとって「熊徹」は「熊徹」だったんだろうなと思いました。別に熊徹のことを父親じゃないと否定しているわけではありません。ただ、九太にとって「熊徹」は様々な役を兼任しているのだと思っています。
「父親」であり、「師匠」であり、「友」であり、「理解者」であり、一言では言い表すことが出来ないが故に「熊徹」だったんだろうな。だから、九太からしたら最上級の呼び方が“熊徹”。
でも九太がしっかりと「熊徹」と呼ぶことはなく「なぁ」、「あいつ」などと呼ぶことが多かった気がします。それにくらべて熊徹は「九太」って凄く呼んでましまね。人伝に聞いた話なので定かではないですが「子どもが親を好きなのは、親が一番子どもの名前を呼んでいるから」という説があるそうです。私、これを思い出してしまって頭を抱えました。
死にそう;;
楓ちゃんの存在は恋愛要素の為かと思っていました。観ている最中、無理矢理ねじ込んだ感がはんぱなかったので。しかし、そう見ているから違ったのです。楓ちゃんは九太の知識欲を促す要員に過ぎなかったのです。なくてはならない存在でしたが、楓ちゃんの立ち位置として「恋愛要員」ではなく「促し要員」だったのです。後に、二人が付き合い結婚するかもしれません。でもそれは結果であり、本編での立ち位置はあくまでも「促し要員」なのです。
何より、九太が人間界にいる理由は「大学に行きたい」なのでそこに楓ちゃんは関係ない。つまり、楓ちゃんは人間界での「師匠」ってことですかね?
…最高かな??
一郎彦は九太の対比だよなぁ、と。「人間」として受け入れられ認められていた九太と、認められてはいたが本当の自分を認められていたわけではない一郎彦。そりゃぁ、病むわ。こうなると、一郎彦からしたら九太がいなければそうは思わなかったのかもしれないけど、一郎彦が人間なのは違いないからどっちにしろ闇にのまれてしまうのかと思うと九太以外救えないよなぁと思ってしまいました。
熊徹も九太も触れ合うところが似ていたからお互いが支えになった。それは誰でも良かったわけではなくて「熊徹」には「九太」が、「九太」には「熊徹」が隣にいなくては駄目だったのです。
たくさん出会う人の中でたったひとり。その人しか駄目なのです。

熊徹と過ごした八年は、九太の一生から比べると短いものだと思います。けれど、生きていく為の基盤はその八年なのです。その時、培ってきたものがこれからの九太の糧となるのでしょう。
いつだって、九太の背を押すのは熊徹なんでしょうね。

本当に素敵な作品をありがとうございました。